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2009年12月

2009年12月31日 (木)

アホ偉い?・・・

 世の中には最初からそうしておけばよかったのに その時点ではなおざりにして 後からやむなくそのリカバリーの為に 人が変わったように精進努力をせざるを得ない立場に追いやられる人が居るというものです

 例えば 軽い気持ちで絶対大丈夫だからといわれて 友人の保証人になって 大きな借財を背負い その完済の為にそれこそ未だかって自分の為にはそんなに働いたこともないのに その友人のせいで遮二無二働いているという人なんかは まさに格好の適例ではないでしょうか

 そんな人を 私はアホ偉い人と 個人的にそう呼んでいます

 皆が皆ではないでしょうが そして人は大抵の場合は 自分可愛さのあまり 自分の為には一生懸命働くものでしょうけれど 中にはその自分の内に甘えの気分を生じさせて つい怠けの方向に向う人も居るというものです

 そしてそういう人が何等かのハズミで 自分のためではなく 他人のために働かざるを得なくなって そして自分の為の時以上に仕方なく精一杯働かざるを得なくなった状況を招いてしまった人を つまりアホ偉い?! と私は呼んでいるのです

 最初ッから自分のために 精出して働いていれば 今更他人や他の事の為に自分の為の時以上に働かなくて済んだだろうに たまたま自分のことで 骨惜しみをした為に そのリカバーの為に普段出さない以上の力を出して 遮二無二自分以外のことに働かざるを得なくなる そのアホウ振りをなんとも形状し難くて ついそんな風な言葉にしてみているだけのことですが・・・

 徒労に近い労働や行為を精一杯なそうとする その努力と実行は 実はアホウなことなのか 偉いことなのか・・・

 つまらぬことなのですが 時に判断に迷ってしまうという暇人なのであります 私は?!

 

2009年12月30日 (水)

被害妄想・加害妄想?・・・

 S性向な人は加害妄想性向で M性向な人は被害妄想志向が強いなんていう指摘は まったくといってよいほど妥当ではないでしょう

 私達の脳内にはかなりの想像力があるようで いずれにしても私達のその太古よりの身の安全とサバイバルの為に こういう妄想性向が存在し続けたのは確かではあるようです

 種の保存意識から被害妄想性向が研ぎ澄まされ また別の意味での種の保存意識から加害妄想性向が牙を向き続けて来たものなのかも知れません

 野性のライオンや虎には およそ被害妄想癖は無いのではないでしょうか 彼等にはむしろ肉食獣としての狩りの意識の極まりとして 加害妄想性が強く現われがちで 即ちそれが昂じることによって より戦闘的にかつ獰猛的に原野を支配出来 即ち自分達の生存の助けになるというプロセスの一助となるのではないのでしょうか

 一方人間のようにおよそ野性種としては 取り立てての腕力や走力ももたない弱小種族にとっては 加害妄想という攻撃的性向を得たところで 何の力にもならないことで むしろそんな妄想に元気つけられて ライオンに立ち向ったところで ライオンの一咬みの前で蹂躙され尽くして終りでしょう

 むしろ人間のような弱小野生動物には 被害妄想的習癖が存在することの方が 種の保存には大いに役立ったものだと思えてなりません

 目先の現実以上に より大き目の危機を感じ想像し続けることで 現実の差し迫った危機をしのぎ続けられるという経験を長きに渡って実践し続けて ついに人類は野生時代をサバイバルすることに成功してきたのではなかったのでしょうか

 例えば洞窟生活時代に 単に洞窟の奥に隠れ住むだけではなく いつ不意に他の種族の人間や獣から襲われるかもしれないという想像から 洞窟の表を塞いで隠したり 柵を作ってみたり 或いは深い溝を考えてみたり 或いは洞窟の表でかがり火を夜っぴいて焚いてみたりと その外敵からの防御策を必要以上に堅固に凝らしてみたりとすることがあったとしたら それこそそれは大した肉体的攻撃力を持たなかった人間に授かった サバイバル力であって これはまさに人類に備わった被害妄想的習癖が その根源にあってのものだったといえるのではないでしょうか

 つまり代々常時にわたって 君子危うきに近寄らずという 弱者ゆえの安全志向が人類の今日の繁栄につながったものではあるでしょう

 そしてその安全志向の根本にあるものは 被害妄想的感性でこれが常に人類史において 種の保存の為の貴重なコンパスというか レーダーであり続けたことなのでしょう

 してみると攻撃が大事か 守りが大事かという命題については 人類は常に一貫して守勢族というか守勢派で 今日まであり続けてきたということで 今日まだ我々の意識の中にこの被害妄想意識が 色濃く残っているとしたら それこそ我々が今日を築き挙げられた 貴重な人類史のへその緒みたいな存在と言えるものなのかもしれません

 もっとも万物の霊長と高言して 世を謳歌している意識に満たされた我々現代人は 知らぬ間に虎氏やライオン氏以上の加害妄想種に変貌し続けているのかもしれませんが?!・・・

そしてそれが昂じると その持ちつけない加害妄想主義が 或いは人類の滅亡の予兆になるのかもしれないという危惧を抱くのは これもまさしく人類特有の種の保存意識に駆られた 私の被害妄想性向からなのでしょうか?!

2009年12月29日 (火)

悪魔的?・・・

 人間歳をとるに従って 枯れてくるというか 穏やかになるというか これまでの越し方を踏まえて他人の心情をよく汲めるようになって 若かりし頃の傍若無人傾向や唯我独尊志向が薄れてくるというのは 避けがたい流れであるようです

 覇気が無くなってくるというか 生きのよさが薄れてくるとも言い換えられるかもしれませんが 総じて人の晩年は生き仏(?)化してくるよう ともいえるのかもしれません

 もっと長く生きていたいという思いは 誰にもあることでしょうけれど そして過ぎてみれば自分の越し方の年月の経過の余りの速さに 唖然たる感慨に至ることも紛れのない気分ではありますが 所詮寿命のない生物はないという事実の前では とにかくこの歳まで無事に生きながらえてきたという事に対する満足感とは行かぬまでも 少なからぬ達成感(?)めいたものも又一方で生じるようで それがよく言われるところの諸事に「感謝」 人生は「感謝」に尽きるという長老族の述懐につながるのだろうと 大いに推測されるのであります

 しかし天邪鬼めいた気分でいうなら 諸人が晩年を仏化への道を辿るのではなく 一人や二人アンチ仏というか 悪魔志向を抱くようなクソ年寄りが出てきても 確率論からいってもおかしくはないのじゃないかと 私は加齢性の反抗期(?)にあるのか たまにそんな思いに駆られないことも無いのです

 勿論悪魔的といっても 精々その大昔に流行ったベビーギャングのあの坊やの年寄り版 いってみれば意地悪ジイサン・バアサン版のようなものでありますが 本当によく出来ているというか 人のDNAは種の保存を第一義にその存在価値を置いているというのか 誰一人として自分の終末に合わせてこの地球上の全人類も併せて終末にしてやりたいという 超悪魔的志向をもった人は居なかったようで 彼の始皇帝にしてからが おのれの死に際しての殉死者は秦の国民すべてを巻き込もうとはしなかったでしょうし その殆どは兵馬俑が代役を果たしているかのようでした

 そう思うとおしなべて人間は生き仏のように変行して 消滅して行くというのはありがたいことで それこそおのれの死の迫りを予期すると 自棄になって ダイナマイトを抱えて原発へ特攻を企てたり 新幹線や航空機の破裂を実行したり 浄水場へ重い毒薬品を撒き込んだりという 超過激な行動を志向する終末期の年寄りが居ないことは 大いに良と感ずるべきなのでありましょう

 というより いい年をこいて こんな幼稚な想像を抱く私自身が 消化不良のままに年輪を加えてきた 仏としても悪魔としてもいまだに未熟な半端老人なんでしょうか?・・・   

2009年12月28日 (月)

1ドル 360円?より 愛を込めて・・・・

 今はもう十分に昔の物語となりましたが 戦後永らく外国為替レートにおける円の値打ちは 1ドル360円でありました

 今の感覚でいうと超円安そのもので どうでしょう 私達がカンボジアやバングラディシュへ出かけて円を使う以上に 当時のドルは対円に対して値打ちが有ったのではないでしょうか

 進駐軍兵士に対する ギブミー チュウイングガムの時代ははるかに過ぎていたとしても 当時肩からカメラをぶら下げた肥満気味の白人老夫婦のグループが 京や大阪城を見物しているのに出くわすと それこそ羨望の眼差しで眺めたものでした

 どれくらい金持ちの国から来た人達なのだろうと・・・

 その姿は 現在アジアやアフリカの貧困国家を旅する日本人達を見て 現地の人達は同じような感慨に打たれるものだろうとは 大いに予想がつくというものです

 そのアメリカにしてもわが国にしても 過剰に過ぎる国家次元の借金を抱え込んでしまって 果たして今後ドルが崩壊するのか 円が崩壊するのか (多分実態は片方の崩壊に連鎖して 残る片方も崩れてしまうのでしょうけれど) いずれにしてもチキンレースに例えられるような 弱者の通貨・為替競争状態であって 例え円が優勢になって可能な限り1ドル1円状態へ近づいたとしても その先には地球的規模の経済的カタストロフィーが待っているような気がしてなりません

 つまり平常時での正常な通貨交換の不能という不測状況の出来とか・・・(現在の金価格の急上昇は 必ずしもお金持ちたちの思惑だけではないのかもしれません)

 1ドル360円時代と比べると 4倍も値打ちが出た円を有している間に 精々海外へ出かけたり 海外から有効な物を購入するのが 現在処するにもっとも賢明な道であるような気もしてなりません (小市民的な生き様としてはですが)

 私の畏友の一人は超ノー天気風に海外でロングステーを楽しんでいるというか 人生をエンジョイしていますが それこそ現下のわが国の経済情勢を考えると かなり的を射て かつ効率的な生き様だと思えてなりません

或る意味 見事でもあります その時代に即応した生き様が?!・・・

 

 

2009年12月27日 (日)

アメリカ的?・・・

 ようやく苦戦ながらもこの期の大統領の代で アメリカ合衆国にも公的な皆保険制度が成立するのかもしれません

 両院での可決が確定したわけではないのでしょうけれど とにかくここまで法案が具体化して 上下院の通過のめどの立ちそうな次元までたどり着けたのは 恐らくこれが初めてのことではないでしょうか

 アメリカンドリームの彼の国は 自助努力に見合うものは惜しげもなく得ることが正義であるという国で ということは敗者やチャレンジしない者や怠惰な者には わが国なんかと比べものにならない程に容赦のない国で 一握りのアメリカンドリーマーの陰には 無数のアメリカンミゼラブルが存在するという国柄でも有ります

 そのピラミッドの底辺階層に対する救済的施策は わが国なんかは社会主義国顔負けの手厚さがあります つまりその好例が国民皆保険制度の確立・維持でありますが この点において彼の国は民間の保険会社の売り出す高額な保険商品と 超底辺層にのみ公的な保険システムが供せられているというらしいのですが それ以外の階層に付与する公的保険制度は皆無のようで そこをついての現職大臣や国務大臣の政策志向が強く働いて 現状のような議会での可決成立活動が現政権ぐるみで行われているのでしょう

 自分達の働いてペイした税金が 直接的にはそんな自分達とまったくかかわりのない人の為に使われるのは真っ平という共和党的感覚の人は 何といっても自助努力の塊りのようなお国柄ですから 今尚かなりの人口に達し そのためこの法案のスムーズな可決は難しく いま少し紆余曲折が観られることになることでしょうか・・・

 この点が私達島国の 殆ど単一に近い民族で成り立っている国との気風の違いなんでしょう

 まず私達には究極の所では 同胞意識がバックボーンとして備わっているようで 同じ日本人の困窮者を救うためなら 自分がペイした税金が自分とまったく関わりのないところで使われるなんて真っ平 という意識は有り得ないことでしょう

 むしろ財源が許す限り大いに同胞の困窮者を救ってもらいたい それが政府の務めだろうという意識すらあるようで 世界中からの移民国家の方が むしろその民族性の多様さが仇になって それこそ自分達とは縁もゆかりも無い他民族からの移住者を救う為に 自分の税金が使われるなんて真っ平という気分に横溢されるのかもしれません

 国連本部の所在地でもあり 多重民族のルツボのようなお国柄でも 言葉・宗教・食生活等の違いを乗り越えて 今日一足飛びで真のコスモポリタン化してしまうには まだ時期が少し早すぎるようで そしてまたそれに輪をかけた束縛を嫌い自由を欲する 国家成立の時点からのそれがアメリカ合衆国のレーゾンデートルそのものであるかのような 自由至上主義が画一的な皆保険制度に抵抗を覚える人達を 今日尚作り出しているのかもしれません・・・

 

 

2009年12月26日 (土)

それが多様性?・・・

 娘の気配りで(?) 彼女の知り合いの今が旬というパティシエの作られた 「究極のガトーショコラ」を口にする機会がありました

 メディアでサンザン紹介されて 当節は口にするのに予約が殺到して数ヶ月待ちとのこと?!・・・

 TVやエアコンのリモコン大の大きさのそれは なんとお代が一個三千円也とのこと?!・・・

 確かに美味さも究極的なら 値段もまさに究極そのもの単価ではあります!

 思わず 「もう一個 気配りされたし」と 娘に申し出て それは無理!無理!と かのパティシエ氏になり代わって即答で断られました

 一方で拙宅には 暮れという季節だからというわけでもなく 定期的にユニセフや 国境無き医師団や セイブザチルドレンなる極め付きの慈善団体めいた組織から カンパの依頼の案内状が送られて参ります

 直視に耐えられぬような世界の各地での惨状が パンフレットにアップされてあります

 極貧・伝染病・テロやゲリラによる無辜の婦女子への暴力や拉致 それで生まれて来る誰からも歓迎されない孤児たちの群れ 無智なるが故に辿らざるを得ない病への道・・・

 一個三千円のガトーショコラは 確かに美味しいのです 美味しいものを口に出来るのは至上の幸福! 

 それを忌避する理由は 何一つ人間としては有り得ません!

 片や 人生にアンニュイを感じられるほどの飽食人間達よりも 飢えに悩まされる痩せ細った栄養失調人間の方が多そうというこの地球上の現実・・・

 確かにワンパターンな紋切り型の世というのは はなはだファッショ的で受け入れ難いものがありますが しかしこの富に富んだ市民社会と 腐るものすら見出せないような超貧困社会との差異 これをしてこれをも地上の多様性といえるのでしょうか?

 そして これをして多様性が好きと 私は尚言い切れるものなのでしょうか?!・・・

 

2009年12月25日 (金)

元祖人類様?・・・

 先だって某新聞の記事で 元祖に近い太古の人類のイラストが載せられてありました

 当然のことであるのに意外という気分を禁じ得なかったのは その図に書かれたご先祖様は(雌? 失礼女性)いとむくつけき全身毛だらけの動物様でありました

 それ以後の長い年月を経るにつけ 火の使用を覚え 洞窟住まいや毛皮や植物性の繊維作りから衣服の着用を見出し とともに住居という構造物を作り出し それらはすべて私達の身の回りに存在する外気が与える 私達の肌への刺激を和らげる有効な方法だったのでしょうけれど 更に現在では様々なエアーコンディショナーを作り上げ 私達は外気そのものを調整や調節できることにもなりました

 かくてあの図に有ったご先祖さまが 逆に現代の私達の姿を目にしたとすると 殆ど頭髪以外は調理前のニワトリのようなスッピンピンぶりの無毛の丸裸図に なんともいえない無様で無気味を通り越し 気の毒さすらを感じるものなのかもしれません

 いかに外界を我々人類に適応させるかという その過程の蓄積振りが人類の発展史であって 例えば幾多の強敵である有害細菌やウィルスを 私達の身の回りから極力除去・駆除することも 間違いなくその一つの顕著な例であります

 外界をわが身に合わせる努力に注力してきたおかげで 人類はずいぶんと幸せな生涯をこの地上で送れるようにはなったことでしょうけれど その代償としては当然のごとく野性の身体能力やサバイバル能力には劣化を見ることになり 唯一段違いに進歩・向上させられたのは頭脳能力であって ここから見えてくるものは知の重要さであり 頭を最上にして二足歩行する存在になり得た人類の 偶然(?)ともいえる僥倖が ここに存在するのかもしれません?!・・・  

  

   

2009年12月24日 (木)

初めて神を見た人は?・・・

 以前もこのタイトルでブログを計上したような記憶があります

 何しろそうそうネタも続かないので たまにはその折の気分を焼き増しして今日を凌ごう(?)という いい加減な魂胆であります

 初めて神から魅入られた人というか 初めて神を見た人というか 初めて神を感じた人というか 初めて神を考え出した人というか 初めて神をでっち上げた人というか とにかくこの世で初めて神なるものを捻り出した人は 紛れも無く私は精神分裂症者的 つまり統合失調者であるという気配が濃厚なご先祖 であったという確信めいたものがあります

 広くて高い大空の彼方を見上げ 一人ぽつねんと アアあの大空の彼方の天上から この地上の野原に一人座っている 私を見下ろされている存在が在る なんてことをまず思うこと自体が そも私を眺める別の存在があるという発想からして はや分裂症者的そのものじゃないでしょうか

 つまり自己を見つめる他者 それも無色透明な存在を祭り上げるということこそ まずもって古代人といえども 自我分裂というか 自分で自分を自分が問うという あたかも観念上の幽体離脱のような現象であって その結果神を見たとするなら それは本当に自我分裂の所産としかいいようがないのではないかと 私には思えてなりません

 と過去の駄文をなぞるかのような拙文で 本日のブログアップをクリア(?)するのでありました?・・・

2009年12月23日 (水)

ああ無常?・・・

 春夏秋冬 毎年四季の去来に寸分も変化の無い緯度帯に棲む私達は その季節季節の移動に触発されて 或いは無常観なる気質を体質とする傾向が 強いものなのかもしれません

 いくら心地よい春が好きと気張ってみても 時期がくれば猶予もなく次の季節のページがめくられ始めます

 地獄のような真夏も 煉獄のような真冬も そのピークは丸々一月以上ということは 決して有り得ません 眠られぬ夜を数週間毎年耐えれば 徐々に穏やかな季節へと走馬灯は走り それは殆ど例年正確にもたらされるので そんな繰り返しを生まれて此の方何十回も経てくると この島国に住まう人の多くは自然と無常観めいた気分をごく普通に抱くようになるものなのかもしれません

 これが高緯度地帯に住するイヌイットの人達や 或いは反対に低緯度地帯に棲む密林や草原の民は 四季の変化は有り得ず殆ど年中一季に近い自然環境のなかで そしてその厳しい自然条件の中では とにかく日々を自然と闘うなり 或いは融合するなりして生存するだけで精一杯で とても来月やその先の月の生活を予定したり 予想したりする余裕は過去にはなかなかに持てなかったことでしょう

 こういう殆ど単一で厳しい自然環境下では無常観めいた気分は まあ生じがたいのはほぼ当たり前のことで こんな環境下で生存を充足させるには まず来る日も来る日も 日々の生存活動に埋没することで精一杯になり 季節感やまして単一に近い季節の流れの 時間の経過による微妙な差異を感じ取ることは よほどの余裕人か自然観測に長けた詩人っぽい人でない限りは 不可能なことでしょう

 だからおのずとそういう地域に住む人達にとっては 無常観なる気分はついに一生涯も持ち至ることは なかなかに非現実なことでありましょう

 してみると無常観なる気分が芽生え 一つの思想的感覚として成長・普及し得るのは 一にもわが国の位置するような 温帯モンスーン地帯だからこそという 地理的観点からのことという 推察も起き得るものなのであります・・・

2009年12月22日 (火)

諦めを忘れた時代?・・・

 今でも地球上の大半の地域ではそうでもないのかもしれませんが 一部先進地域と称される所に住む人達にとっては おおむね明日の食事も保証されているでしょうし おおむね明日の命の保証もまずされているでしょうし 行きたいと思えばまず世界中のどこの国へも遊山に出かけられるでしょう

 長寿化したとはいえ 寿命に限りの有ることが  まるで唯一先進地域に棲む人類にとっての 絶望的な宿命であると言っても過言はないのかもしれません

 しかしその寿命も 長寿化のおかげで現在のところは 徐々に脳の劣化を招き そのために今際の折には自身を正常に把握できない状態に陥っている老人も多くて その人達の末期はおのれの終末を冷静に把握できないゆえに 殆ど自身の絶望的な末路を認識もまた明晰に体験することもなく 人生を終えられるのかもしれません

 すると現代人の(恵まれた地域に住む)大半の人は あまりに非現実で分不相応なことを望まない限りは 人生上でまず大抵のことは達成できる可能性がある というかそういう可能性のある時代に生きているということになるのかもしれません

 とどのつまりだから現代人は 一般的に言って一昔以上前の人達はハナから諦めていたような事象や現象も おおむね身近に実現できるといような情勢下に生きてきて およそ諦観というような諦め心が極めて薄い存在になってしまえたのではないでしょうか

 それはそうでしょう だってこれまでの人生で本質的に諦めなければならないようなことに遭遇する機会があったとしたら それは恐らく自身の年長者の死を看取った時くらいのことで あとは皆無に近いのかもしれません 

 望んで得られなかったものが殆ど無かった人達は(決して日常的な就職や進学や結婚というような次元の問題ではなく) 逆説的にいうなら だから諦めなければならないというものも 殆ど皆無に等しかったということになるでしょうから それは言い換えると 極めて諦めの悪い人達の集まりであるという表現にも 換えられ得るとも言えるのであります

2009年12月21日 (月)

人為性の悪寒?・・・

 年末寒波も少しは到来いたしましたが それでも人類の無秩序発展に比例したかのような 暖冬傾向は今年も顕著であるとの予想ではあります

 そうなのに そして例年の私はどちらかというと寒さにはめげない 比較的年中ホカホカ体質でありましたが 今年は例外的にこの程度の初冬度で もうかなり外出するのにひるむ気分が出てきだしたり 背中に覚える悪寒がかなり常態化しているような現象と向き合いだして来ております

 決して慢性の風邪に見舞われているわけでもないのです

 単に加齢がもたらせる或る日突然という現象の一つが 私にも寒さという次元で舞い降りてきたものかと 最初のうちはそう感じたりいたしました

 しかしどうもそれにしても?・・・という気分が湧いてきて それで再び直近に起きた私や私の回りの出来事について 思いを巡らしてみました

 果たして これが原因だったのかということに一つ思い当たりました

 素人の私にはそれが正確な原因であるという確証はもとよりありませんが 私がひょっとしてと思いあたったことは この春先より血圧のキツイ上昇に気付き かなり強めの降圧剤を かかりつけの医師より処方されていたのであります

 結果急降下的に正常域にまで血圧はコントロールされて今日に到っているのですが 血管内の血行に何等かの調整を加えると 従来のホカホカ体質は変調をきたし 幾分は寒がり人間に変貌を遂げるのではないのかということなのであります

 そういえば身の回りの低血圧と自称する人達には 総じて冷え性というか 極端な寒がり性が多いということに思いあたります

 果たして 冷え性や寒がり性というのは 血圧と何等かの相関関係を持つものなのでしょうか 私自身の今年の経験だけからすれば 大いにそのようという気分は濃厚で この分だとアウトドアでのウインタースポーツは遠慮がちになり 精々自宅のビルの階段の昇降を徒歩で繰り返し ウォーキングの代償にでもするかという気分が濃厚な 体たらく振りなのであります?!・・・

2009年12月20日 (日)

喪中葉書から?・・・

 歳を経るほどにこの節いただく喪中葉書の数が増えるのは 理に適った流れではあることです

 そしてまた少なくとも団塊の世代たる私達が世を去る頃までは 師走の街をこの種の葉書が駆け巡ることが 衰えることは有り得ないのでしょう

 それ以後の時代にあっては 少子化の流れにそって 年々その種の葉書がチマタを飛交う数は減ってしまい なかんずく電子メールがその任を荷って チマタを忙しく飛交うのは 紙から電波の喪中案内へと移り変わって行くことでしょうか

 即ち 当家の○○が本年某月某日に逝去いたしました つきましては年末年始のご挨拶のメールを遠慮させていただきます云々 という風に・・・

 してみると公社化か民営化なのか いずれにしても郵便局は大変ですね 固形のものは通信物も小荷物も 宅配業者に優先される勢いだし 電子メールは通信会社の縄張りでしょうし この先業務が細ることはあっても こと郵便事業だけでは右肩上がりの見通しはまず無いのでは?・・・

 過疎地での心強い存在と 過疎地のお年寄りの杖のような存在で 重宝されているのはもっともなんでしょうけれど 単に経済効率だけからみれば いずれかつての国鉄のような赤字垂れ流しの組織として存在せざるを得なくなるのは必定でしょうか・・・

 アメリカ合衆国のように移民で成り立つ国民は それこそ先祖代々鍬を持ってこの土地に居ついてきたというような 自分達のルーツと化したような土地に対する執着や愛着は強くないので それこそ食べられなくなったら 職を求め新たな土地へと さっさと移動することをためらいません

 その点がわが国と大きく違うところで そこが今日わが国に過疎地が頻在する大きな要素となっているのでしょう

 また農耕民族と狩猟民族という成り立ちの違いが その元にあって余計に二国間の違いを際ださせているものなのでしょうか

 今日これだけわが国にあっても海外旅行が繁昌し 地球上隈なく旅する人が増えたという現状を考えてみると 若い世代以後の人達は それこそ目まぐるしく世界をまたに駆けて移動したり 住み着いたりすることに旧世代人ほどの抵抗を持つことはないでしょう

 それこそ冒頭の 喪中葉書はやがて姿を消して行く流れにあるというのと同じで 過疎地というのもやがては 新世代人が老人化する頃にはかなりな程度姿を消してしまうことでしょう

 メトロポリタン化どころか 今後の若い世代はコスモポリタン化の尖兵のようになって 世界のいたるところに移動して住み着いてもらいたいという思いが何故か私には強くあるのです?!・・・

 

 

2009年12月19日 (土)

最期の年越し?・・・

 濃い肉親を見る目はどうしても客観性に欠けるきらいがあるものです

 しかし同時に肉親ゆえの強い観察力で以って終始眺めるので その極めて主観色の強い判断のなかにも 正鵠を射るものが往々にして存在するものでもあります

 そんなわけで私の母を眺める目で以って感じるのは わが母もこの正月が最期の年越しになることだろうという実感なのであります

 早逝した私の父の最期は 当時の医療事情の現代との差はあったにせよ 当時には有り得た最善の医療環境の中でも かなり過酷な終末を迎えたものでした

 一年半の間に延べ一年にわたる入院生活 その間何度救急車でかかりつけの病院へ緊急入院を繰り返したことか・・・

 直接輸血を受けた近親者や一般人の方々は 延べで百人どころではありませんでした そのたびの緊急招集(?)をお願いするのが大変な仕事でありました

 完全介護を家族と家政婦さんのタッグで行い続け 夜中に何度近親者に危篤の電話をかけて 集合させたことだったか・・・

 何度目かのその危篤が真実になって 明け方の医師の救急蘇生処置が無に帰してしまった時 悲しみ以上に私はこの介護に疲れきった自分の体が これで明日から解放されるということに対する ほっとした感覚の方が強くあったという記憶は禁じえません

 母の介護は父の時ほど一時に過重の懸かりすぎるものではないにしろ ほぼ十年にわたる介護疲れは これも真綿のように私や近親者の体には染み付いて来てはいます しかも父の時とは比べ 介護者である私達の年齢が高齢化してしまって 疲れの蓄積度は当時とは比べるべくもないような状況であります

 しかし不思議なのはどうしてでしょうか・・・私の目の下のベッドに横たわる衰えた母を眺めていると そしてこれが彼女の最期の年越しになるだろうという予感がしだすと その私の悲しみの気分は いい年をしているのに際限がなく湧いてくるようで 年甲斐もなくという常識を超えた感情を否定のしようがありません

 誰にとっても母親は偉大な存在であるとしても 私の母とて他人にはごく普通の存在であります 決してマザーテレサでも キュウリー夫人足りえる存在でもありません

 しかし誰にとってもそうであるように 私にとっては掛替えの無い母であって それが最期を迎える時が近づいていると感じると 未だに幼児と変わらぬような悲しみを覚え 途端に途惑ってしまうものなのであります

 これが同じ親であっても父の時のそれと比べると その落差が自分でも不思議なのであります

 たらちねの母たるものとの離別への哀愁の気分 それを今は父たる自分が おのれの父たる人には余り感じ得なかったことに対する罪悪感というよりは 同じ男としてやがて死んで行く自分の死への 寂寥感というものでしょうか 母の最期を悲しむ気分と同時に そんなものが少し湧いてきたことでありました・・・

2009年12月18日 (金)

無税国家?・・・

 無税といっても 天然ガスのような地下資源がそれこそ湧くようにある ブルネイ国の話題ではありません

 先だっての新聞記事で知った話なのですが パナソニック創立者である故松下幸之助氏が設立された 松下政経塾での氏の話に それは 国家の予算を現行のような単年度システムにせずに 明治の御世から毎年の使いきり予算ではなく 毎年幾ばくかの予算を余して それを国家ぐるみの投資にまわして今日を迎えていられたなら 恐らくわが国は今頃無税国家に成れていたかもしれない という内容の話であったそうです

 もっとも現実は その間に幾多の戦争があって とても国家的投資を積み重ねられたわけがないでしょう しかし理論的には確かに 慎ましやかに倹約する家庭は 決して借金に追い立てられることは有り得なく まして有能な財テク集団に国家の資金を運用させ続けて 百年もすればその利益の蓄積と利息で 毎年徴税をしなくても楽勝に国家を運営できるのかもしれません

 例えば来年の国家予算が95兆円として その一割を余剰金として残せて それからの運用益を得られたとして 累々そんなことを百年にわたって続けていたとしたら 確かに膨大な益が国庫に蓄積され 或る時期より わざわざ徴税に走る必要がなくなり 人々は税というくびきから免れることになるでしょうか

 もっともしかし議院内閣制のわが国にあっては 単年度予算制を採っていなかったとしても この理屈どおりには行かなかったのは かなり確かなような気分が私にはあります

 各々の地域から選ばれてきた議員にあっては 地元の陳情圧力は神の声にも等しいものがあるでしょうから 勢い毎年度予算の分配を巡っては ヤクザの喧嘩腰に近いような なりふり構わぬ力勝負で予算当局や その関係者に圧力をかけることでしょう 

 その議員達の最大公約数的推挙で選ばれるのが 内閣総理大臣なのだから 選ばれた恩義を各議員に感じずには居れないことで かくて毎年の予算は膨らむことはあっても 縮められてそれを国家的利殖に励むなぞという殊勝な気分を議員ぐるみで 誰一人として持ちつける意識がある筈がないでしょう

 かくてここに理論的には 資源らしい資源は何も無いわが国にあっても 無税国家は為しえたという神話は 現実には水泡に帰す次第なのでしょう

 それに何より節約・倹約国家は 江戸時代の田沼意次の消費優先的風潮と その後に続いたアンチ田沼政治である 超倹約改革の風潮を比べてみてもわかるように 一方的な倹約志向では不景気や それによる失業者の大増加で 国内の納税金額は減少の一途を辿るのみで とても予算を余らせて投資にまわす余裕がなくなることでしょう

 衆愚政治のもたらせる弊害である借金過多状況からは だから免れがたいものがいつの世もついてまわり それを排除するのは至難の業であって そんなわけでも残念ながら幸之助氏の言われる無税国家は 夢のまた夢で終わってしまい続けるのであります?!・・・  

2009年12月17日 (木)

馬鹿馬鹿しくなければ 人生じゃなくもない?・・・

 先だっての小沢民主党の訪中団は 常識どうりに万里の長城も大挙して訪れたとか・・・

 以前高校の学祭やファイアーストームで 定番のように歌われた「デカンショ節」の非正調っぽい歌詞に 「万里の長城で 立ちションすれば ゴビの砂漠に虹が立つ」というものがありました

 で?

 で?って 問われても困るのですが この歌詞を一つのコピーと捉えて 他に色々想いをめぐらしてみても 当節はこんなカラッと乾いた馬鹿馬鹿しいコピーというのは あまりというか 殆ど目に致しません

 小奇麗で小さく調和がとれた まとまりのある社会になってしまったというか 冗談でもなかなかに不謹慎じみた言葉を発するのを 表面上は許されないという 或る意味 個人の基本的人権の尊重が世間の隅々まで行き渡った小立派な社会 或る意味 そのため個人の羽目を外すことをなかなかに許容し難い 堅苦しい建前化した社会に 私達は今立ち位置しているようなのであります

 均等な人権を享受するということは 無論民主主義社会の根本になるものであります

 当然均等割りの基本的人権を有することは 均等割りの義務と責任も有することで それがために個人的に許される社会での行為というものに 制限が加えられ 当然個人にあっても いたずらに他人に迷惑をかける行為は自粛しなければという 真っ当な倫理観の下に子供たちは育ってくるので こういう社会が成熟すればするほど 一見大人しくて行儀よく だから覇気に欠けそうな若者が多くみかけられると 高齢者には感じられやすくなりがちではあります

 また実際はそういう分別を 昔人とくらべたら格段に多く体質化している人が 圧倒的多数のような状況の社会であって それがまぎれもなく今風の市民社会の風景なのでありましょう

 かつてもてはやされた ハチャメチャな漫才師や落語家などの日常社会での超市民的行為の数々は 今では芸人だからという一言では 許されない社会になってきていて 現在のワイドショーの底意は かつてのようにスキャンダルの意表性や大きさを もてはやすのではなく スキャンダルのネタもとの芸能人の行為の 自分達市民とのその落差や差異を指弾したり 責める気分がその種の番組の視聴率を保たせていることなのでしょう

 万里の長城で 立ちションすれば・・・ 私服の中国公安にすぐに袖捕まえられて 引っ張られて行くよ 冗談にしても そんな馬鹿げたことは非現実過ぎると感じるのが 現代人の常識であって それゆえ現代の若者は誠にもって立派な市民ぶりであります

 かくて昔を知る高齢者は 治に居て乱を考えるがごとく 治に居て一行のコピーからでも 馬鹿を懐かしむしかないのであります?!・・・

2009年12月16日 (水)

時間停止休暇?!・・・

 今年という暦も残り半月をきりました 成年以後の人なら大抵の人は感じるでしょうけれど 時間・年月の経過の目まぐるしく 迅速なこと!

 こんな具合だと 人はいくら寿命が延びたところで実際の時間感覚は 今ほどは気忙しくなかった頃の人生50年という寿命時の人達との 時間量と一向に変わらないような感覚しか受けようがないのではないか という気すら致します

 新年がすぐに過ぎると 梅・桃と言っている間に 桜の開花が瞬きのような速さで通り過ぎ この間正月だったのに えっもうゴールデンウィーク? その楽しみの休暇が束の間に終わると 梅雨が来てすぐに旧盆の休暇 厭な残暑だね いつまで続くのか まいるねと言っている間に 秋の彼岸が過ぎて  寂しさが詩(うた)になる紅葉の季節 そしてあっという間に次の正月がやってきて・・・

 「なにが嬉しき正月や」と その昔毎年のように暮れになると 母の口からそのセリフが飛び出してきたのを覚えています 幼かった私は当時その母の言葉をまったく理解できませんでした

 現在はこの飛び去るような年月の展開振りを思うと 母のかつての言葉もよく実感できるというものです

 三次元空間に棲むという私達には 時間を自在に操ることは不可能であります だから何も未来や過去の或る時へ 空間を超越して出かけてみたいと言うのでは決してありません

 そうではなくて ここ数年毎年のように感じるのは せめてこの暮れの一時だけでも ほんの短時間で結構ですから できることなら時間を止めてもらえないかと 云ってみれば「時間停止休暇」みたいなものを 我々人類に与えてもらえて 先ほども書いた年間のあわただしい経過の流れをせき止めて ほんの寸暇でもその時間に留まったままで 普段なら刻々と流れ去って行くこの空間という湯にのどやかに浸かってみたいという願望が 私には重くあるのです?!・・・ 

2009年12月15日 (火)

脱獣臭?・・・

 砂漠のような超乾燥地帯でなく 地球上のごく常識的な湿度帯で 何ヶ月或いは何年も入浴や水浴び・湯浴みをすることなく過ごすと 動物園内でもれ臭ってくる獣臭と殆ど変わりない悪臭(?)を 私達も発するものなのでしょうか

 もっとも体毛を殆ど無くした状態にある私達は 野生の動物ほどには獣臭は強くならないかもしれませんが それでも体表から浸みだす脂成分に空気中の細菌がこびり付き腐敗現象を起こして それが臭いだすことは確実でしょう

 多くの野生動物達とは違って水浴や湯浴みという行為を 日常的に繰り返すという作業に転化させ得たことは  言葉や火の使用をあみ出すこと程の偉業ではないにしても 己が身辺を結果的に極めて清潔に保てるという 健康上の効果を考えてみると 結構画期的な生活習慣を持つことができたものだと 感心せざるを得ません

 温泉好きの野性の猿や 他の動物においても 水浴びをするものは存在するでしょうけれど 私達程日常生活にそれを取り入れた存在は 他の野生種にはまず存在しないのではないでしょうか

 そしてその習慣は今日では一人人類そのものの為ばかりでなく 家庭で飼うペットにもその領域が及び 私の少年時代のような家庭犬の発する獣臭は 現在のペットにあっては見事に除去(?)されて あろうことか身にまとう衣裳を競うかのようなスタイルで 飼い主とともに散歩に出かけるのが ごく常識と化したような街頭風景が日常化しているありさまであります

 清潔志向が体表の洗練度を要求し 私達はかなり規則正しく洗髪や入浴を行い 結果体臭もそぎ落とされることになってきたもので 私がよく用いてきた表現をここでもまた使うことになりますが こんなところにも人類の脱動物化 即ち人工化を如実に示す好例があるのではないでしょうか

 それが先進各国ではペットまでをも清潔にさせることに影響を及ぼさせ なんか誇大妄想的ではありますが 人類の潜在的に理想とする対象物は その行き付くところは無機質な人型ロボットのような存在ではないのかと?!・・・

 彼らは無色無臭で極めて清潔な存在であることでしょうし・・・

 そんなロボットを真剣にペット化したり 愛でたりする時がすぐそこまで来ているのかも?!・・・       

2009年12月14日 (月)

先行逃亡?・・・

 もう何度も当たり前のようなことを書きましたが 即ち 赤字国債に象徴されるわが国の膨大な借財と 少子化による国勢の衰退とが相まって とんでもない厄災が我々の近未来に起きる可能性は かなりのものであると・・・

 天災は忘れた頃にやってくるという 寺田某先生の名言がありましたが 今に来るぞ来るぞと言われながら 実に本当にやってくる厄災というものもあるものなのです

 そういう意味では 話題が少し違いますが 今に来るぞ来るぞと言われ続けている 関東大震災や 南海大地震の再来も あわよくばなんて淡い期待を抱かずに 本当にすぐにも来るものと腹をくくり その対応を出来る限り準備しておくことが 忘れてないから天災は起きないだろうという 甘い期待よりはよほど現実的生き様のようであります

 超借金まみれで しかもどんどん人口減の続くこの国にあって 未来人達は 高金利と限りない円安状態という 相反する理屈の合わない状況の中で急激な窮乏生活に落ち込んで行き モラトリアムを他国に宣して実行したかつてのアルゼンチンのような 低経済・低所得国家へとなり下がって行き 現在の我々のような生活水準は 羨望の目でしか懐古できないというような不幸な状況に やがては落ち込むことになるかもしれません

 では?

 もはや国家的対処法が無いに等しいとするなら 自分個人の延命や可能な限りの幸福の道を おのずから探し出さねばならないでしょう

 というより個人の最低限のサバイバルの道は 個人で模索するのが当然という程に 国家の為政力が落ちるのは目に見えてくるということでしょうか

 そこで考えられるのは 円にまだしもの値打ちがある間に 一切合財の財産を金(キン)やキャッシュに換えて 国外へ飛び出すことであります

 それも 国籍そのものを日本国から 他国へ移してしまうのであります

 治安がよくて 医療や介護の対応がよくて 物価も比較的安くて 食べる物が 自分の口に合いそうな諸外国を探すのであります

 とはいえここまで現世にこだわって 未来世界の富をかつてに赤字国債として使いまくり 今がよければという生活が送れた日本国程 色んな面で現代人が生存し易い国は 他所にはそうは有り得ません

 本当の金持ちはどこに居ても 生き残れるので 海外移民や海外逃亡の必要はないかもしれません

 しかしいずれこのままの状況が続けば 中流階級以上の階層の人達はこの国に止まって貧乏クジを引くくらいなら 少しのリスクを冒してでも安全で裕福な国へ移住しようという気になる可能性は かなりな程度増えてくるのも自然な流れであるのかもしれません

 あの華僑と呼ばれた中国人の海外移民者の たくましさとやる気とにならって 足元の明るいうちに祖国日本とオサラバと考える人は 本当に増えることがあっても 皆無ということはあり得ないことでしょう

 かくてますます祖国は衰退し過疎化が進み 逃げた者勝ちという状況になれば 残された庶民に貧乏神のみが宿り続けるという青図が見えてくるようで  というような思いが募りだしそうといえば それは被害妄想に過ぎると一笑にふされ得るのでしょうか?!・・・

2009年12月13日 (日)

プチ女詐欺師?・・・

  大したことではなかったにせよ 昨夜私はちょっとした非日常的な出来事に遭遇いたしました

 恒例の母への面会を終え 母が世話になっている施設からの帰り道 某大きな交差点まで戻って来た時のことでした 歳の頃なら五十歳にはならないだろうという 痩せて痩身気味の女性が歩み寄ってきました

 「あのう 突然で申し訳ないのですが 財布を無くしてしまいまして 帰りの電車賃をカンパしてもらえないでしょうか」

 お金を貸してくれではなく ストレートにくれというセリフに 私は少し納得できるものがありました

 詐欺だとしても ハナからくれと言われる方が 気持ちが良いものです どうせ返っては来ない金を おためごかしにきっと返すので 貸してくれといわれるよりは 潔いものがあるように感じたのでした

 「幾らくらい」

 「それが少し遠くて 家までは1250円かかるのです」

 フーンと思いながら 左手をズボンのポケットに入れ 私は札入れを取り出そうと致しました

 その瞬間 ついさっき交番の前を通り過ぎてきたことを思い出しました

 「そこに交番があるので そこで借りられたら?」

 「交番は巡査のポケットマネーで 貸してくれるようで いい返事がもらえませんでした」

 「えーっ」と素朴に私は聞き入りました

 しかし?「住所と名前を書いて渡しておけば 困った人には誰でも貸してくれる筈でしょう そこ その先に交番があるから もう一度頼んでみたら・・・」

 「では 貸してくださらないのですね」 くだんの女性はさっと半身に 私から視線を避けると 通り過ぎようとしだしました

 とは云うものの 私はポケットから財布を取り出そうとしていたところなのでした

 もし女性のいうことが本当なら まさに彼女は途方にくれているのであり 助けないわけには行かないし なんといってもその程度の金額なら 騙されたとしてもそう恨みを募らせることはないだろうという気分で 私は拒否する気持ちはありませんでした

 交番所という話のくだりから 彼女はなんだか 私から半身になりだしたようで最後は私の左手の動きを見定める余裕もなく 去りだしたのでした

 詐欺だとしても 1250円という超ミニサイズのそれであります

 しかし これを一日かけてあちこちのストリートで何十人 何百人の人にカンパと称してねだり続けたら ひょっとして結構なアガリになるものなのかもしれないか?

 いや 本当に帰宅の電車賃に困っていただけなのかも?

 疑う私が下世話な男なのか・・・

 母の施設からの帰り道 頭の中からは母への思いは束の間消えてしまい 一見まともそうなその女性の後姿の残影ばかりが 私の念頭を占め続けた初冬の宵でありました

2009年12月12日 (土)

三句?・・・

 

 師走の蚊

 わが母に似て

 見送りし

 

 朝布施や

 母に通じる

 細き道

 

 母の香を

 匂いださせる

 だいこ炊き

 

2009年12月11日 (金)

風の風景?・・・

 科学に疎い私ですが 風の発生は 地球の表面上の大気に 厚い薄いの空気の圧の違いが場所によっては起こり得て その圧の高い方から低い方へと空気は流れ込み その流れこむ勢いを 私達は風と感覚していることなのでしょうか・・・

 もっともそのなかでもポピュラーなのは 台風や木枯らしや竜巻なんかでしょうか

 春風に薫風に野分けに山背に 海風・陸風云々と 島国日本を吹き抜ける風の名称は 季節や地形によっても種々の表現が用いられるようです

 私の個人的な風に関する感想は 薫風をほんの少し過ぎた頃の かすかに湿り気の強くなりだした大気が その湿り気の重さを風に乗せて また深緑になりつつある木の葉の精気にあふれ出した匂いが その風に乗って伝わってくる 晩春とも初夏ともいえない微妙な時期に 私の頬や鼻腔をかすめて行く風 それが私にとってもっとも好ましいというか ああこの風だと毎年印象強く感じさせてくれる大気の一姿なのであります

 また丁度その頃に限り よく路上を散歩中にどこぞやの家から 習い始めのようなピアノの鍵盤を叩く音がもれ聞こえてきて 毎年その軽やかな音を耳にすると 逆にああすると今年も あの風が吹くような季節になったのだと 私にとってはピアノの拙い練習音と 春夏の境にもたらされる風とは対になって体に刻み込まれているようなものらしいのであります

 四季を人生に例えると 丁度その頃が青春から壮年期へと入り込む 人生でのもっとも精気溢れる頃であり それが無色の風にもなんとなく染み込んで  風の香りにも精気が宿り そのなんともいえない芳しさが 毎年私の感覚に印象強いものを残してくれているということなのでしょうか・・・

  

2009年12月10日 (木)

私達の握手スタイル?・・・

 私達の握手スタイルの著しい特徴は どうしても普段のお辞儀スタイルが その時も吹っ切れないのか 手を差し伸べながらも 大抵の人は腰を屈めへっぴり腰になるということです

 握手の国の人達は 背筋を伸ばし堂々と右手を差し出すシーンが メディアで当然のように映し出されます

 日本と同じように握手の慣習のなかった 中国の人達の現代の握手スタイルは 総じて背筋が延びて西洋スタイルに近いものがあるように見受けられます

 韓国の人達は 隣国のよしみなのか わが国ほどではないにせよ やや腰が引け気味で あれ似ているなあと そういう映像を見るたびに 親近感を覚えるものです

 一体に西洋にあっても 封建時代を経て現代に到っているわけで 農奴や農民 商人 といわれるような存在の下級階層人達は 君主や貴族を前にして現代人のように背筋を伸ばして 握手の手を差し出しすことが出来たはずはないでしょう

 やはり卑屈に腰を屈め 頭を下げたスタイルが 権力者を前にした時の挨拶のスタイルであったことでしょう

 そうすると 卑屈に腰を屈め頭を屈するのは 何も日本人の庶民一人がそうであったわけではないのに どうして私達の握手スタイルには今尚卑屈なへっぴり腰スタイルが残り 多くの他国ではそんなスタイルは忘れ去られ ソウシャルダンサーのような 背筋の伸びた格好のよい握手スタイルを 普通にできるようになったのでしょうか

 誰ともフラットという人権意識が西欧には横溢しているとしても それより以前にははるかに長い封建的時代が存在し続けたはずで その頃の習慣が日本人とは違って 比較的短い時間で持ち離せたというだけのことなのでしょうか? 

2009年12月 9日 (水)

優しさの影?・・・

 誰に対しても優しいというのは ずるいということでもあるのよと 昔我妻になじられたことがありました (確かに想像上かはいざしらず 神様は万人に優しい反面 また万人に厳しい存在であるとは云われておりますし・・・)

 私達夫婦は物を捨てられない気味の夫婦であって それはなにも始末やケチという気分が濃厚であるからというのではなく いちいちその物を捨てるかどうかという判断をするのが面倒なだけであって 後でアアあれは残しておくべきだったという事態が起きたら厭だなとか思い出すと その為の判断を一つ一つのものに対して行うということが面倒で ついそれなら捨てずに置いておけと言う気分になって ゴミ屋敷一歩手前の惨状になるまで 夫婦して捨てようという気分に駆られないのであります

 中途の前振りが長くなりましたが 私達日本人の優しさもこの気分に通ずるようなものが有るという気がして 私はなりません

 他人に対して優しくないということは 他人に厳しくという態度をとるということに通じて 果たして私達はそんな他人に嫌われるような行為をとりたいかといえば よほどの不利益を被らない限りは 他人からの不評や憎まれを買ってまで 進んでそんな優しくない態度を取ろうとはしません

 つまりその時点での判断を放棄して 優しくしておけば諸事互いに無難ということで かくて物を捨てられないのと ほとんど同じ次元での他人への優しさというものが継続されることになるのです

 それが今日のわが国の 膨大なる赤字財政の因にも通じているのでしょう

 国民すべてが 外的な事情による不幸や貧困からまぬかれることは そんなことは限られた税収からして 確率的に有り得ないのであって・・・ 

 それは同じ日に産まれた人が 同じ人生を辿れないがごとく 同じこの国の国民であっても そのすべての人が思い通りに生きられるはずが無い 最低限の勝者の論理は有り得るし それは個人的に見て長寿や短命の人があるように 仕方の無いことだから 政府に無制限な要求をしてくれるな・・・・ 

 もともとから人生は薔薇色ではなく 精々グレーだと認識しておいてくれ云々と 政権公約や日頃の態度で言い切れる政治家は 誰一人として今のところこの国には見当たりません

 そんな優しくない言質を残せば 嫌われるのだし そういう嫌われる言質をして なお多数の国民を切り捨ててまでして この国の財政を立て直すべきか それとも現状のままで少なくとも現在の国民に できるだけの満足を与える優しさが良いものなのかという選択や判断を放棄して つい惰性で無難さを継続してしまうという 実に見かけの優しさは生きる誰にとっても肌触りの良い麻薬のようで 優しくしないという選択肢を取れるということは 苦い薬を飲むことそのもので まさにそれは良薬かもしれないのですが みんな小ずるくその判断を放棄して かくていつまでもこの国の民は優しく舐めあって そのおかげで最後には一気に到来するかもしれない 大カタストロフィーを知らず待つ身というのが 民族的特性であり また運命なのかもしれません

 優しさは 現代日本のバベルの塔なのかも?!・・・

2009年12月 8日 (火)

人類の人工化?・・・

 例えば三日も飢餓状態にあって その後いきなり菓子パンやスイーツを口にしたら しみじみと美味いという実感に包まれることでしょう

 或いは街灯一つ無い真っ暗闇の山道を一人歩いていて いきなり道端の藪の中から「オイ 金を出せ」と声がかかったら それこそ腰を抜かさんばかりの恐怖を味わうことでしょう

 一方でTVのグルメ番組を観ながら アアなんて美味しそうな料理なんだろう 口中が蕩けそうなんていう想像や またオカルトチックな番組で ウワァ 無気味で気持ちが悪いという悪寒をい抱いたりと 云ってみれば二次的な感覚を経ての好悪感を抱く機会は 日々無数にあることでしょう

 その昔 素朴な動物状態に近い次元にあった頃の人類は 腹が減ると飢餓感 野性の動物に狙われて追いかけられると 命の懸かった恐怖感というように 大体において周りの現実がもたらせる状況に応じた実態感覚が殆どであったことでしょう

 しかし現代にあってのそれは TVや書物や各種メディア等から得られる情報を元に そこからの新たな想像がもたらせる飢餓感や満腹感や恐怖感や不安感等と 云ってみれば二次的現実からのバーチャルチックな想像的感覚の方が 一次的な原因に由来する本来的な諸感覚よりも その度合いや比率がよほど大きくはなっていないでしょうか?・・・

 してみると原初の野性の時代より 日常の素朴な感覚が我々の内から減るということは これ即人類の人工化の賜物ということなのでしょうか!!

2009年12月 7日 (月)

南国慕情?・・・

 街中に居ようが 田園に居ようが はてまた密林に入り込もうが 四六時中体から離れることのない あのべっとりとした鈍くて重い空気と それがもたらせる気だるい雰囲気・・・・

 現地の誰一人として小走りでもなく緩慢に だから背筋を前傾させて気忙しく歩く者は居そうにない あの南国の風情が私はたまらなく好きであります

 もともとがアンニュイな気分に満ち溢れた男なので そのくせ大阪人特有のセッカチぶりは 他者の類をみない面もあるのですが そのセッカチの性分も存在することがあたかも腐敗に直結しそうな 気だるい大気に包まれていると いつしか気だるさが私をまったくに覆い尽くしきってくれて アンニュイそのものの塊りのごとくに変身させてくれるようで その化学変化ならぬ 気分変化がたまらなくて それが私が南国を慕う因のすべてなのであります

 一方で体も際限なく切り込まれ 収縮し続けるかのように緊張しきる寒さを感じさせてくれる 北国の大気も決して嫌いではありません

 むしろあの四肢の筋肉や毛細血管までもが 強張りそのもののように変貌する あの体中の凍結感は生きることへの緊張そのものを大いに鼓舞してくれて あまあまの人生を送り続けてきた私の 格好の刺激剤としてはうってつけなのかもしれません

 しかし日頃セッカチで それに由来する緊張感で体中が充溢された私には  幾ら程良い締りのある感覚といわれても 寒さから来る収縮感よりは ゴディバのチョコが年中蕩けていそうな あの際限の無い気だるい南国の空気の方に より慕情するものなのであります・・・    

2009年12月 6日 (日)

もっと灯りを?!・・・

 近世紀以後のサイエンスの飛躍的な発展・振興によって それに伴なう人類社会の富のストックの著しい増加ぶりで 二次的に人類にもたらされた最大の功績の一つは 「明るさ」というものであります

 その一は 今日や明日の食や職に困るという ほん数十年前の状況から解放されて おおむね先進国といわれる国々では 根本的な生存の保証のされた屈託のなさ それが人々の精神面にユトリと余裕を与えてくれて いにしえの人が見たならば満面の明るさと感じられるほどの 軽快な明るさを現代の私達は兼ね備えられるようになれたのではないでしょうか

 その二は 文字通り私達の夜が明るくなったということであります 私の幼児期の記憶を辿ってみても 昔の都会といえども それは暗い街でありました

 いつの間にか 街路や公園内にこんなにも沢山の街灯が常備され 単に繁華街のネオンサインばかりでなく マンションの外部照明や 個人住宅の街灯など ましてやこの季節のクリスマスイルミネーションの一般化もあり 街は本当に明るくなったものであります

 例えば色んな事情で精神的に暗くなる状況に陥って (云うならば病気や失業や金銭苦などで) 憂鬱満載な気分に浸り切っていたとしても そのあなたが古臭い病院での病人としての暗さと 新しいピカピカで採光もよく 光り輝くような病院での病人としての暗さを比較するなら 同じ病名で同じ重症度であっても 私はやはり明るい状況に置かれて居る方が 気休め程度とはいえ その方が気分は少しでも軽く明るくなりがちだというのは 確かという気がしてなりません

 同様に雪国の果てしなく続く曇天よりは 南国の焼け焦げんばかりの陽の下での貧乏の方が 気分的にはよほど過ごし易いという感じがしてなりません

 だからといって 南国地域の人の方が 北方地方の人達よりは平均寿命が長いのかどうかは 私は知りません

 ただ思いのほか明るさというのは 暗さと比較して万事が明るい方が 陽性でプラス作用が大きくて能動的であり 暗さと云うのはその反対に位置するものの集まりであることでしょう と云えば 何を今更そんなありきたりで解りきったことを言うのだと云われそうですが そう一般的に世間で思われている以上に実際はもっと明るさというのは 暗さと比べて人類に積極的な恩恵を与えているものだという確信めいたものが 私には感じられます

 病は気からといわれますが その実際は病は暗さからでしょうし 金の無いのは苦の骨頂と言われがちでしょうけれど 同じように貧乏な人同士でも 幾分かでも明るい気分を持てる人の貧乏と 暗さ満面の貧乏では ストレスの度合いが違ってきて やはり明るい人の方が相対的に寿命は伸びることでしょうか

 ゲーテの臨終の言葉といわれるのは 「もっと光を」であったそうです・・・・

 「明るくなければ人生でない」というキャッチコピーは 私達の明暗感に対する常識を はるかに超えて正鵠を射ているものでありそうです!・・・ 

2009年12月 5日 (土)

時間の加速性?!・・・

 竹馬の友たるかつての悪がき達と はや今年最初の忘年会を済ませました

 その内の一人が言うことには 「この間 母が世話になっている養老院へ 久しぶりに出かけてみて 驚いたことには 椅子やソファーに腰掛けて別段話すでもないし TVに興味を示すでもないという そんなおばあちゃん達が殆どで 大抵はポカーンと口元も視点も緩んでいて 何をするでもなさそうで 日がな一日が退屈で長そうと思って ついわが母親に尋ねてみたんだよ こんな風な毎日だったら一日が長くて 退屈だねって」 

 「そしたら 母親は何て言ったとおもう?」

 「何言ってんのよ ここでの一日なんてあっという間よ だって」

 「オレ 越しぬかしそうに驚いた」

 「むかし小学生の頃 あの教室に閉じ込められるのが どうにも退屈で 早く終了のチャイムがならないかと 毎日毎日そればかり待ち焦がれていると 余計時間って経たなかっただろう」

 「あれから 大きくなるにつけ時間の流れは加速されて行くみたいだったよな」

 「社会へ出てからは 結婚して 子供が出来て 育てて 孫が出来て まったく速かった」

 「それが 最後になって ホームではまた昔に戻って 教室に閉じ込められた頃のように 退屈を持て余すようなだるい時間の流れに戻れるのかと感じて  まあ何となく人生の初めと終りがそれでは 帳尻があうのかなと 母に尋ねたら ドッコイ 光速だってよ 驚いた!!」

2009年12月 4日 (金)

私達の特徴的気性は?・・・

 私的に私達の民族性を俯瞰して云える印象は 大乗系無神論者の集合体という 一言?!・・・

 これで本日のブログを閉じると 極めて省エネかつ手抜き的であって 私はシアワセそのモノ?・・・

 しかし勤勉(?)な私自身も少々物足りなくて で 今思いついた駄想をもう一文・・・

 一体に日本語で云うところの 「悟り」や「悟る」という言葉に正確に該当する 他国の単語が存在するものなのでしょうか? 

 悟り の私流の解釈は 「楽観的絶望」です・・・

 すると さよならだけが人生?!ってわけ・・・

 少し違和感があるよう・・・

 ウーン この辺りからいつも眠りに入りこみだすようで・・・

 

2009年12月 3日 (木)

神様の与え賜う 不公平?・・・

 常々子供の頃から抱いていた疑問があります

 どうして神様は人類だけに恩恵と福音を与え賜うのでしょうか

 神様は人類の為だけに目配せをされる 存在(?)なのでしょうか

 DNAレベルでみるなら人間と他の動物との違いは その組成においては ほんの数パーセントしか違いがみられないというそうなのであります

 で そうであるにもかかわらず 何ゆえに食物連鎖にあっても最上位に位置する人類のために あたかも他の動植物は存在しているかのような印象で その人類の口に入る為に殺されて行く 他の動植物には神の恩恵が施されないのでしょうか

 それを我々は選ばれた存在?だから と言いそうな人間が多そうですが   それはあくまで人間サイドの思い込み?なのであって・・・

 ・・・・なんか 神様そのものが か弱くはあっても利己的な人間の 人類誕生以来の天動説的思い込みというと 神罰が下りますか?!・・・

 以上 犬・猫・ライオン・トラ・ネズミ・蛇 云々諸々族の思いを代弁いたしまして?!・・・

 

2009年12月 2日 (水)

二題?・・・

 

 酢のごとく 

 見事なるかや

 女去り

 (遠い日の追憶です)

 

 緩慢に

 草の上にて

 ホームレス

 遅陽(おそひ)を浴びて

 起き上がりけり

 (今朝の散歩での 傍観です)

 

2009年12月 1日 (火)

自己中人?・・・

 将来の女性・男性の性格や感性の差異が どんなものになるのか 或いはまったくそれが現在のそれと比べて 薄いものになるのか 濃いものになるのか それは現時点の私の想像力では 推し測る術はありません

 しかしこの歳まで生きてきた一男性として 男女間の感性の違いということの印象で 女性一般に対して常々感嘆せざるを得ない一面があるという思いが濃厚であります

 男性はそもそも諦めが良い?というべきなのか なにごとにもそうくどくどとは他者に対する好悪の気分を残さないし ましてや外に口走らないものであります

 その点男は義務教育時代に受けた青臭い倫理観やモラルを いつになっても後生大事に脳のどこかに刷り込んで生きている 可愛い動物なのかもしれません

 女性はというと これが何十歳になったところで 或いは死ぬ当日になっても 永遠に明日があるという刷り込みを 体中に染みわたらされているものなのか およそ枯れるとか諦めるとかというような気分を生涯持ち離すことなど有り得ないかのような 生き様をする存在のようであります

 すなわち男性との比較において 断然の自己中度を誇り 即物的・現実的生き様そのものの存在のようであります

 男性はまだしも観念や空想の世界や それに向けての広がりの可能性を持つ生き様をするものでありますが 妊娠をし出産をする運命付けをされた女性は およそ空想や観念などという人間の二義的生き様なんていうのは 甘っちょろくて生ぬるい それよりなにより安産で健康な子孫保持が第一義であって 喰えもできねば 養えも直接には出来ない空想や観念の世界に入り込むような遊びは要らないという本能的な識別が 雌族には本来的に具有されているのかもしれません

 それにしても何十歳になっても 明日があり やれこちらが損 あちらが得ばかりしていると再々愚痴や小争いに終始している 90歳前後の超おばあちゃん族を 母を見舞いに行ったついでに そんな女性達を傍観していると その自己中心度の凄さに おもわずこんな女性観を抱かずには折れないのであります!!・・・